FUJIFILMの公式サイトリューアルにともない一瞬見れなくなったものの、各所の要望により復活した「富士フイルム50年のあゆみ」を読むとどれくらいFUJIFILMがフィルムメーカーだということにこだわってきたかを伺いしれる。
国家大義を背負ってフィルムの国産化に乗り出すぞ
第一次世界大戦後、セルロイドの活用に着目し写真&映画用フィルムの需要拡大と国産化を社会的責務と捉えて研究・開発を始めた大日本セルロイド社。コダック社との技術提携を申し入れられるも拒否される運びとなり「フィルム事業自力計画」を掲げて悪戦苦闘する。1934年、当初の目的であったセルロイドの活用分野において大勢を果たしているものの、写真フィルムの製造・販売についてはセルロイド事業と別の取り組みが必要と判断し大日本セルロイドはフィルム国産化事業分離を決断。富士写真フイルム社が誕生する。
社名に「富士」の名を冠することにこだわり、当時としては相当な額を持ち出して商標を取りに行ったっぽい。だからこそ、「富士」と「フイルム」の称号はFUJIFILMとしては絶対に欠かせないものになった(はず)。
ここからFUJIFILMは幾多の困難を乗り越えて2001年、フィルムシェア世界No. 1に君臨し続けたコダックを抜く悲願を達成し、そのために培ってきた技術を応用し総合ヘルスケアカンパニーとして生まれ変わることとなる。
僕たちの闘いはまだはじまったばかり
外国製品の値下げ、販売力の不足、品質問題などの事態が相次ぎ、映画用フィルムも、一般用写真感光材料も、販売は不振をきわめ、創立間もない当社の経営は、危急存亡の危機に直面することになった。
富士フイルム50年のあゆみ
大日本セルロイドから新会社として発足した直後の富士写真フイルムに襲いかかる不遇の連続。
コダック・アグファ社の製品価格の値下げに大日本活動写真協会からの「国産フィルム使用反対」の糾弾声明。
1935年、富士写真フィルムの初代社長淺野修一氏の決意表明なんかは涙なしには読み進められない。
「資本金の40%に及ぶ巨額の助成金交付を約束されて、写真フィルム工業を確立して外国品を駆逐することを自分に課せられた使命と観じ、会社経営に当たってきたが、毎期赤字を続けて、会社は憂慮すべき状態にある。前途有為の諸君を、今後どうなるかわからない会社に縛っておくことは忍びがたい。他のよい会社へ転ずる道があるならば、なんら遠慮することなく、当社を去られたい。いまならば退職手当も若干出せる。ただ自分は、この写真フィルム工業を生涯の事業として、あくまでやり抜く決意であるから、志を同じくする人は、会社に残って、自分と運命をともにされたい。」
富士フイルム50年のあゆみ
この段階でまだ富士フイルム50年のあゆみの第一章の半分程度の情報だ。どうして大河や朝ドラにならないのか不思議なくらいそれはそれはドラマティックなのである。
フィルムの国産化、そして外国製品の駆逐を目指し、社員一丸となって戦中戦後を駆け抜け続ける。そして70年かけて大願成就した。
だから近年の部材不足などで富士フイルム社のフィルムの入手難についての苦言を見聞きしたり、万が一フィルム事業を撤退することになっても私は「もうやめてあげて!!!FUJIFILMはめちゃくちゃがんばったんだから!!!2002年以降はそれまで頑張ってきた人たちのためのボーナスステージなの!!!!なんで写真文化をここまで根付かせてくれてありがとうっていえないんだよ!!!!」とすっかり富士フイルムびいきになってしまった。
しかしFUJIFILMの魅力はその歴史がドラマティックなだけではない。90年代に入り、なおコダックの背中を追い続け日本にフィルムと写真文化を根付かせるために行ってきた様々な施策。フィルムのことだけ考えて繰り出してきたノベルティのなりふり構わず感がたまらなく可愛いのである。
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